お盆

7月13日は、明福寺で盂蘭盆会法要を行いました。

盂蘭盆会法要においては、昨年のお盆から、今年のお盆の間に亡くなった方のご家族、いわゆる新盆のご家族の方に、本堂の前列で、特別に焼香をしていただいています。

今年の7月13日は平日であったにもかかわらず、沢山の新盆の方が見えられました。それだけ多くの人が亡くなったのだと改めて実感させられます。

又、今年は私の祖母も2月に亡くなったので、中根家も新盆でした。私が生れてから、中根の姓を名乗る身内は亡くなることは初めてなので、初めての新盆でした。

僧侶というのは、死と対面する機会は多いですし、残された家族も多く見て来ましたが、自分というのはどこか別のところにおいていたようです。

考えてみると誰しもが、誰かに残された人であり、いずれ誰かを残していく存在だと気付かされます。
血が繋がっているということではなく、同じ時代に生まれた誰かを

しかし、普段死というものを特別な事と捉えています。あまり考えないようにして、どのように生きるのかそればかり考えています。

生きている時が人間の価値であり、死んだら無価値になる。
生と死を切り離しています。


お盆の時は、沢山の方がいらっしゃいますので、掃除も念入りに行います。
境内を掃除する時は、(夏には多くありませんが)落ち葉や、古くなったお墓のお花を片付けます。

落ち葉も、木になっている時は、葉っぱとして存在していますが、ひとたび風が吹いて離れてしまい、地面に落ちたら、落ち葉となって掃いて捨てるものになります。

木になっている時は、いずれ落ち葉になるのだから、木からむしってしまえとは思いません、木を離れて、地面に落ちた刹那です。

人間の一生もそのようにとらえています。死よりも生に価値がある。
しかし、そこに必然的に苦悩というものが生じてきます。

誰しも生まれたと同時に、期間の長短の違いはあれ、
いずれ死ななければならないからです。

価値のあるところから、無価値のないところに行かざるをえない。

なんとか生きながらえようと必死にがんばります。

そこにまた苦しみが生じてきます。
なんとか思うようにしようと思って、
死を回避しようと色々な手段を講じてみても

最終的に乗り越えることは出来ません。

生とはすなわち死ということです。
離すことが出来ません。

生のみが我等にあらず、死も亦我等なり。 我等は生死を並有するものなり。
清沢満之


この言葉が響いてきます。
しかし、響いてくるのは生のみに固執しているから
でしょうか・・・


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