2月28日(土)は聞法会でした。
通常は午後一時半より
勤行 住職の話
午後三時より
私が話させていただくのですが

昨日住職が突然体調崩ししてしまったので
これは無理だということで

急遽両方私が話をすることにしました。


私自身の勉強の場として
歎異抄を一つずつ進めて来たのですが


さて住職が担当していた時間は何をしようか
準備する時間もないし、う~ん

何を調べたい、学びたいかと
考えた結果、白骨の御文を行うことにしました。

白骨の御文には
「朝の紅顔夕べには白骨となれる身なり」
という、有名な箇所がありますが

この意味は
朝は血色の好い顔をしていても、
夕がたには白骨となってしまう身である、
もっと簡単にいえば

朝生きていても、
夜まで生きている保障はどこまでもない
ということであると思います。

この御文は、火葬を終えた後や、
四十九日の納骨の時に、拝読されるものであるから

近親者を亡くした、遺族としては
この言葉が身に響いてくるであろうし、

人の身というのは、無常なはかないものだと
自分にそれを置き換え思うのですが

御文の後半では、

「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいら
 せて、念仏もうすべきものなり。」


と続くのであります。

強引に短くすると

人の身というのは、無常なものである。
だから、どの人も阿弥陀仏を深くたのみ、念仏を申して下さい。
ということになるわけです。

人の身は、無常である、だから念仏申せと
そう書いてあるのですが

ここが中々頷けないわけです。
難しいといっても、言葉としては

何を言っているのかはわかるのですが、
発想として、わからない。

なぜ無常だと念仏申すことになるのか


ほとんどの人がどのように亡くなりたいか
とのぞんだ時に

自宅で家族に囲まれながら、

苦しまずにポックリと死にたいと望んでも
格好よく、迷惑かけずに死にたいと望んでも

そうはいかないのである。

病院で寝たきりなり、苦しみながら、我慢しながら
死んでいくのである。

私の人生は、私が切り開いていくもので
私の努力や、頑張りでなんとかしなければならない

上手くいっていれば、私の努力の成果であり
上手くいかなければ、努力が足りなかったのか
運が悪かったのか

体が老いて不安になる
体が病になって不安になる

老より、若いがいい
病より、健康がいいという所に立つかぎり

人は落ち着けないのである。
変化していく身の事実を引き受けられない

生身の体なのだから
老いて当たり前
病になって当たり前

成るようにしか成らないとでもいうのでしょうか
身の事実を引き受けられた時
具体的な歩みというのが始まるのでしょうか

私自身、私の努力や頑張りでなんとかなると
思っていますが

この私の人生は私がどうにか出来ると思っているところに
病にもなる、老いてもいく、最終的には必ず死ななければならない
無常なる身の事実というものが

思った通りに出来ない、
苦しみというものを生じさせているのである。

私がこのようにしたいという願いが
苦しみを生じさせているのである。

思い通りにならない事を、
思い通りに出来ると思っているところに
苦しみを生じさせているのである。

果たしてそれは私の思い通りに出来ないのに
私の人生といえるのか

だけれども、私が存在し、そこに生かされている

生まれることも、死ぬことも、人との出会いも

私の思いはからいを超えた世界に
生かされているということが知らされ

そこに初めて人智を超えた、如来への感謝
南無阿弥陀仏の念仏が湧き出して来て
報恩感謝の念仏申される身となるのではないだろうか

無常なる世界に生かされている
全ては、はかることは出来ない世界
そこにはからずも生を受けた

一切合財賜ったものであるとういう
頷きが生じてくるのではないだろうか
コメント

やさきの解釈について

私が先とか人が先と言う解釈は本来でないと思います。
この時のやさきの解釈は、まさに矢先であって、ちょうど私がまさにそういういのちであり、またあなたがたもちょうどそういういのちであると言う解釈が正しいものと思います。
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