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「ねえ、パパ消しゴムのカスちょうだい」

え?何がほしいって?

「消しゴムのカス!」

何に使うの?

「もう一回集めて、黒い消しゴムにするの、これだけ大きくするのに凄い時間かかったんだよ」(黒い固まりを見せる)

そっか(笑)

「これで字消せるんだよ」(実際に字を消して見せてくれる)

凄いね

「だからパパも手伝って!」

わかった、わかった

裏紙をシャーペンで一面黒く塗って
消しゴムで消すことに

ねえ、なんで黒い消しゴムつくろうと思ったの?

「○○ちゃんがつくっててさ、もう凄い大きいの持ってるんだよ。私も負けられないじゃない」

そっか、でもね、誰かが持っているとか、負けられないというのは一度考えた方がいいよ。自分がしたいことなのか。自分がほしいものなのか。

「私が消しゴムのカスほしいの!」


私は幼少期のことを思い出した。

私は小学校4年生まで
ビックリマンシールを集めることに熱中していた。
当時の私の資源である時間、お小遣いをほぼ投入していたかと思う。

周りの友人関係においては
ビックリマンシールは
財産であり、人間関係でもあった。

もはや流行っていたというより
流通していたといっても過言ではないかと思う。

チョコを買ってシールを増やし
そしてシールを友達と交換し、
保有状態を自分の理想に近づけていく

ヘッド1枚と悪魔30枚の交換というものも
両者の合意があれば成り立っていた。

もはやシール本来の意味を超えて
保有し、交換し自分を満たしていく貨幣であった。

しかし私が10歳のころ
世田谷区から、港区へ転校してきた時
転校先の小学校ではビックリマンシールを誰も集めていなかったのである。
(というより、その時もうブームは去っていたのかも知れないが)

とてつもない衝撃であった。
1日で私が時間と労力をかけた
ビックリマンの価値がなくなってしまったのである。

ただ大人になってから以下の文章を読んで改めて思い起こされた。

“マルクスは、ある特殊な商品が貨幣となるのは、それが貨幣たる属性を帯びているがゆえではなく、すべての他の商品がそれぞれの価値を、ある商品によって表現するからであり、その機能は「社会的関係」の表われにすぎないことを示した。つまり、貨幣となる商品は自力で貨幣としての機能を獲得するのではなく、全商品がその商品を一般的な価値表現として用いるという共同行為の結果として、言い換えれば、ある商品が貨幣という地位に立たされることで、貨幣となる、というのである。
 ところがいったん、ある商品、たとえば金(きん)が貨幣の立場に立つと、今度はそれが動かしがたいものと見えてくる。人々が「金が貨幣だ」という前提で行動する限り、金は貨幣としての機能を果たすからである。するとやがて、貨幣機能が金の本質であると信じられるようになる。金は生まれながらに貨幣としての性質を持つ、と人々が信じるなら、金の貨幣としての地位を疑わなくなるので、金の地位は盤石となる。
中略
マルクスの議論は、貨幣という存在の虚構性を明らかにし、その物神崇拝を打破するためのものである。貨幣が貨幣であるのは、そこに貨幣を成り立たせる社会的関係があり、人々がその関係に順応しているがゆえであり、一方で人々のその関係への順応が、貨幣を成り立たせる社会関係を再強化する。そういう循環関係が貨幣という虚構を実在たらしめている。それゆえマルクスは、人々がその虚構性を認識し、順応をやめるなら、貨幣構造は崩壊し、貨幣は貨幣でなくなることを示したのである。『経済学の船出 創発の海へ』安冨歩“

私はビックリマンに価値があると思い込んでいたが、
それは周りの人が価値を認めていたから成り立っていたのであり、
そして私の価値があるという思いが、周りの思いを再強化していた。
私のビックリマンへの思いは、
周りによって支えられたものに過ぎなかったのか、、、

我々は物本来の価値を超えて

物に持たずに、持たれてしまうことがよくある

みんなが持っているものがほしい

みんなが手に入らないものがほしい

みんな持っていたら、もっと良いものがほしい

手に入れたら手に入れたで、その物がコンプレックスになったり

下手をしたら価値を感じなくなってしまうこともある。

周りの価値というものに支えられている限り
苦労して手に入れたものが無意味になる。
その苦労が無意味になる。

ここに虚しさがある。

周りの価値というものに振り回されている限り
絶えずこの虚しさが潜んでいる。

親鸞聖人の言葉に以下のものがある。

本願力にあいぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし

仏さまの願いにであえば
むなしい人生を過ごさなく良いと言っている。

では一体それはどういうことなのだろうか

またこれも親鸞聖人の言葉に以下のものがある

雑行を棄てて本願に帰す。

今の言葉で表現すれば
これがいいですよ、あれがいいですよ
という周りの声に振り回される自分に気付き
本当の願いに立ち返る
本当の願いをあきらにするという宣言であろうか。
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