FC2ブログ

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

奥さんの実家に行った時
義姉夫婦にあった

そして
義姉は私の奥さんのお姉さんであるが

義姉の振る舞いが誰かに似ているなと思った

なんか良く知っている人なんだけど
誰だっけ

ああそうだ

実の姉に似ているのだ

持っている
個人的なものは全然違うのだけれども

家族全体を見まわし
テキパキとその場で
最適と思われる発言や
行動をする

とてもしっかりしていているのだ

この特性を私は
(実)姉の個人的な特徴だと思い込んでいたけれども
(義)姉に会って
これは二人の個人的な特徴ではなく
「姉」だからという要素も大きいのではないかと思った


さて
今私には二人の娘がいて
二人は姉妹である

姉がしている行為に
絶えず妹は注目し

姉が持っているからこそ
妹はそのものが欲しくなるようで
直ぐに喧嘩になる
その結果、妹に譲ることになったり

ママに甘えたいのに
すでに妹が甘えていたりと

基本的に我慢を強いられる状況が多い

そしてそこで聞かれる言葉は
「お姉ちゃんなんだから○○しなさい」
「お姉ちゃんなのに○○しておかしい」

そして逆に何かが出来たら出来たで
「さすがお姉ちゃん」

と妹がいる時には
本来の姿ではなく
あなたは姉という役割を演じよと

有形無形のメッセージが
与えられているのではないかと思う

もしかしたら多くの兄、姉が
経験しているのだろうか?

(私は弟なのにというメッセージを与えられた覚えはない)

その結果どうなるのか

我慢の出来るいい子になるのではないかと思う

このことは
当たり前のことなのだろうか

私はそうは思わない
これは行き過ぎた場合、人を生きづらくさせる

いずれ爆発させるか
生きる力を失わせると思う

これは姉という名に限らない

人間だろうが
親だろうが
男(女)だろうが
僧侶だろうが

人間はこうあるべき(すべきではなない)
そうでなければ、あなたは失格

親はこうあるべき(すべきではなない)
そうでなければ、あなたは失格

男(女)はこうあるべき(すべきではなない)
そうでなければ、あなたは失格

僧侶はこうあるべき(すべきではなない)
そうでなければ、あなたは失格

このような外側から答えありきの
強制的なメッセージは

人の感覚を失わせ、考える力を奪ってしまうと思う
それでは活き活きとした生活を送れるはずがない

まず名は
関係性によって与えられる
そして名はこうすべきであると
人を縛るものではなく

その名は願いであり問であると思う
外側からではなく
内側の思いを呼び覚ますものではないだろうか
そうであるならば
以下のような問かけになろう

人間とは何か?何が願われているのか?

親とは何か?何が願われているのか?

男(女)は何か?何が願われているのか?

僧侶とは何か?何が願われているのか?

名が自覚を呼び覚まし、歩ませるのだと思う


親鸞聖人の言葉に以下のようなものがある

名字は因位のときのなを名という。号字は果位のときのなを号という。


まず
名号とは南無阿弥陀仏のことである。
南無阿弥陀仏とは(原)因と(結)果の要素がある。

これは南無阿弥陀仏とは歩みである、
もしくは歩ます願いであると読めるのではないかと思う。

浄土真宗の教えとは
南無阿弥陀仏ととなえる
とこれだけである

ではとなえたらどうなるのか
ここに念仏が人を歩ますということがあると思う


先ほどの例でいえば

姉という名は妹(弟)という環境によって与えられ、
そこにまず引き受けるということが
なければならないだろう

そして
自分自身の行動によって
自分より弱い者が傷ついている
もしくは笑顔に出来るとしたら

あなたはどうしますか?という
問を一緒に見出すことではないか思う

その後は本人が感じ、
考えればいいのではないかと思う。

私自身にも
子供によって父親の名が与えられ

その名によって父親とは何かと
絶えず問われているのではないかと思う

そこには自然と自覚を伴う歩みが
生まれてくるはず・・・
コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ナカノブ

Author:ナカノブ
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。