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11月の聞法会は歎異抄の十五条を取り上げました。

一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。(現代語訳)
「信心を得たならば、あらゆる煩悩を具えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。
 この主張は、もってのほかのことである。即身成仏(この身のままで仏になること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果(身心で大日如来を観じて得たさとり)である。六根清浄(人間の身心が清らかになった状態)という教えは、法華一乗(天台宗の教義のこと・『法華経』に依る大乗の教え)の説くところであり、四安楽の行(自己の身心と他のひとを安らかにするための修行)によって得られる功徳である。
 これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏、菩薩をイメージすることにより成就するさとりである。
 それに対して、人間の時間意識を破って未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の教えである。すなわち、いま、ここで本願力の信心に身も心も定まる道だからである。
 これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の小さな努力を救いの条件とはしない教えである。
 だいたい、いのちのあるあいだは、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるから、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのである。
 まして、私たちのように戒律や修行や知恵のない者が、この世で「さとり」を開くことなどないのである。しかし、阿弥陀の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのである。
 この身をもったままでさとりを開くというひとは、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相を具え、法を説き、人びとを救いとろうとでもいうのだろうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言い得るのであろう。
 親鸞聖人の『和讃』には、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(決して壊れることのない信心が定まる、そのとき、阿弥陀如来の光に摂めとられ、永遠に迷いのいのちを超えたのである〔善導大師を讃嘆した和讃〕)とある。これは信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀の救いに摂めとられるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはない。そうすれば、永遠に迷いの生活を超越することができるのである。
 このように受け止めることを、「さとる」ということと混乱してはならない。まったく哀れなことである。「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀の本願の教えを信じ、彼の土(次の瞬間)でさとりを開く」と、いまは亡き、師匠・親鸞は仰せられたのである。
『現代語歎異抄』 親鸞仏教センター

雑感 
浄土真宗でお勤めする『正信偈』の文章の中に
以下のような箇所があります。
「不断煩悩得涅槃」
これを書き下すと
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
意訳すると
「わずらいや悩みを断たなくても、仏のさとりを得ることができるのです」
もっといえば
「今の愚かな私のままで、活き活きと生きていけるのです」
そして、ここが浄土真宗の要と言っていいかも知れません。
そういう点からすると
「信心を得たならば、あらゆる煩悩を具えた身のままで、さとりを開くことができる」という主張はあながち間違えていないのではないかという印象も受けます。

そんな視点から理由付けの部分を読みながらどこをどう問題としているのか、丁寧に整理しながら読みこんでいくのが肝要なのでしょう。

往生とは何か、成仏とは何か
浄土真宗が顕かにしようとしている人間解放の道理とは何か
こんなことを好き勝手に一時間話しました。

私が象徴的な和讃が並んでいると思っている箇所があります。

如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし 『浄土和讃』
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり 『浄土和讃』
この和讃が並んでいるのは前述の通りですが

先の和讃では
凡夫の世界ではさとれない、仏の世界で顕かになる

としながら、後の和讃では
信心をうれば、如来とひとしいのだ

と、矛盾するようなメッセージが並んでいます。

この相反するメッセージの根底を尋ね続けていく、
そういう動的な姿勢が問われているのでしょうか。

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