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12 21
2010

最近同世代の色々な人の色々な話を聞きます。
皆何かしら気にかかること、
不安に感じていることがあるようです。

「結婚生活に疲れた・・・許されるなら一人でいたい」
日々の生活が自分の思い通りに過ごせない

「付き合っている人結婚してくれるのかな・・・」
相手が思った通りに動いてくれない

「婚約しました!」
喜びの笑顔

「彼と別れてスッキリ!」
清々しい表情

「友人が育児ノイローゼになってしまった」
思ったとおりに子ども言うこと聞かない

「子どもが出来ないの・・・」
思った通りに子どもが出来ない

「仕事が決まんなくて・・・」

「人間関係が酷い職場で・・・」

アラサー世代の

仕事、結婚、出産と
理想的な人生
理想的な幸せとは一体なんなのか

ある人は結婚して悩み
ある人は結婚できなくて悩み
子供が出来て悩み
子供が出来なくて悩む
仕事がなくて悩み
仕事で悩む

一体何が幸せなのか、
こうなれば幸せになるなんてあるのか・・・

共通しているのは
「自分の思い通り」にならない

だから苦しいし、不安になる


誰しも幸せになる方法を知っている。

「自分の思い通り」になれば幸せになれるって

そんなこと実現可能なのか
努力すれば、頑張れば、いい方法が見つかれば
いや無理だ・・・

よく仏教を学んでいると
自分の思いが死んで、仏の願いに生きる私になる

いかなる状況になろうとも
「今」事実に喜べなければ
普遍なる安心は得られない

というようなことが書いてある

確かにそうだなと思う、
しかし、本当に辛いと思える出来事に
出会っている人に
そんな言葉が届くのだろうか・・・

わからない

「自分の思い通り」にならないことを
「自分の思い通り」にしようとしているところに
苦しみが生じてくることを認識することが第一歩なのでしょうか?

親鸞聖人晩年の思想自然法爾にそこのヒントになるものが眠っているのではないと感じています。


自然(じねん)というは、自(じ)はおのずからという。行者(ぎょうじゃ)のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然(ねん)というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾(ほうに)というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法(ほう)のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上仏(むじょうぶつ)にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏(みだぶつ)とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。『末燈鈔』六〇二頁

【現代語訳】自然という言葉は、まず自というのはおのずからという意味である。行者のはからいではなく、そのようにさせるという言葉である。然というのもそのようにさせるという言葉、行者のはからいではなく、如来の誓いであるからである。法爾というのは、このような如来の誓いであるからこそ、そうさせることを法爾と言うのである。如来のお誓いであるがゆえに、そこにはまったく行者のはからいは加わらず、すべてが法の徳のはたらきとなり、そこで、そのようにさせると言うのである。まったく、私たちがあらためてはからうべきことではない。だからこそ、他力においては我々のはからいを離れることを本義とすると知るべきだ、と言われるのである。自然という言葉は、元来そのようにさせる、という意味の言葉なのである。 阿弥陀仏のお誓いは、行者のはからいでなくして、「南無阿弥陀仏とまかせるように衆生を仕向けて迎え取ろう」と仏ご自身が元来御はからいになったものである。それゆえ、行者が自ら、これで善かろうとか悪かろうとか思案することのないのを自然と言うのだと聞いている。阿弥陀仏のお誓いの中身は、信心の人をこの上ない仏にならせようと誓われたものである。この上ない仏というのは、すがたかたちのないものであられる。すがたかたちがおありにならないから、自然と言うのである。かたちがあると示されるときには、この上ない覚りとは言わない。本来はすがたかたちもないのだという趣を知らせんがために、ことさらに阿弥陀仏と示されたのだと聞き習っている。阿弥陀仏というのは、自然の趣を知らせるためのおすがたである。以上の道理を心得たのちには、この自然について、もはや常に穿鑿(せんさく)すべきではない。ありきたりのものの如く分別的に自然について穿鑿するなら、はからいのないことを本義とするということまでもが、なお一つのはからいとなってしまうだろう。自然とは、我々の思議の及ばない仏の智慧なのである。
コメント

No title

「自然法爾」・・・いい言葉です。

「自然法爾」と「倶会一処」、これがわたしの標語です。わたしの名刺の裏にはこの言葉が大きく印刷されている。受け取る相手はそのどちらかが印刷された名刺を受け取ることになる。

>しかし、本当に辛いと思える出来事に出会っている人にそんな言葉が届くのだろうか・・・

⇒「仏法は幼き時にたしなめ・・・」は蓮如さんの言葉だそうですね。(今泉温資師の法話より)

⇒「私は癌をいただいたおかげで、仏法に出遭わせていただいた ・・・」これは鈴木章子さんの言葉。

鈴木章子さんはお寺の生まれで、幼いときから仏法の環境で育った。いわばその下地があった。

お寺が幼稚園経営をすることはとても意味のあること。また、子を持つ親はその子にいかにして仏法を相続させて行くか(いわば下地作り・・・)、これは大切な大切な子育て、親の責任。ま、仏法に生きる親の背中を見せることができるように・・・ね。

しかし遅くはない。高 史明さんはご子息の自死をきっかけに歎異抄に出会われた。

Re: No title

バガモントさんへ

コメント有難うございます。
事実として、出会っている方はいらっしゃいますからね。
出遇う、出遇わないもハカラウことじゃないのかも。

そういえば

今回のブログで話したようなことを
日曜礼拝の感話で話しました。
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