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お盆も終わって

七月十三日は盂蘭盆会法要を行いました。
平日に法要を行いますが

普段法要に参加されない方でも新盆にあたる方は
仕事を休んで来るご家族も沢山いらっしゃいます。

亡き人への想いといったらいいのでしょうか
とても尊いことだなと感じます。
伝道講習会に参加してからというもの
何かを話す前には事前に準備をしようと思うようになりまして

原稿作成とまではいきませんが
引用文をA4一枚に印刷して
本堂にいらっしゃる方に配ってお話しました。

お盆の法要ですのでまず
お盆について


盂蘭盆会とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。

目連伝説
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。


こちらはウィキペディアからの引用ですが
盂蘭盆(うらぼん)とは倒懸(とうけん)と訳せるようです。
倒懸といわれても、日常使用する言葉ではないのでわかりにくいですが
逆さ釣りにされる苦しみといえるようです。

そして、目連伝説には
喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
とありますように、普段であれば、喉が枯れて、飢えていれば、水を飲み、食物を食べれば満たされるはずですが、しかし、この話の中では、ことごとく入る直前に火となって口に入っていかない
これは、精神的な枯れと飢えを表現しているのでしょう。
私達の欲望はありとあらゆる側面で尽きることがありません。
あれがほしい、ああなりたい
そして、一つ叶えれば、また新たにあれがほしいとこうなります。
もっともっとの世界とでもいえるでしょうか
ほしいものが手に入れば、満足するかと思いきや、実は手に入れるごとに
迷いを深くしているのです。

また少し話しは変わりますが、
この伝説では子から親への想いというものも感じます。

様々方がお盆の法要にいらっしゃっていると思いますが
親を亡くして、
お盆の法要に参加している方も多くいるかと思いますし
また、人間として生まれてきた限り
親がいない人はいませんので
親子に関して心に残った言葉を紹介しながら
お話できたらなと思います。

西谷 啓治
人間としていってはならない言葉
「誰のおかげで大きくなったのか」
「勝手に生んでおいて」


この言葉はなぜ出てくるのかと言ったら
自分の意に沿わない発言や、行動をした時でしょう

自分の思い通りの子とならない
絶えず反抗してくる

自分の思い通りの親でない
ちゃんと面倒みない

この自分の思い通りに生きていきたいという
自己中心的な思いそのものが
人間関係を断絶していく言葉を発させるのでしょう。


聖全Ⅰp490 觀經四帖疏 序分義
母胎に懷み已りて十月を經、行住坐臥に常に苦惱を生ず。復産の時死の難を憂ふ。若し生み已りぬれば、三年を經るまで恒常に菌に眠り尿に臥す。牀被・衣服、皆亦不淨なり。其の長大するに及びて婦を愛し兒を親み、父母の處に於て反て憎疾を生じ、恩孝を行ぜざれば、即ち畜生と異なること無し。
※菌と尿は実際は違う字です。
意訳
懐妊して十月の間、ずっと行住坐臥に母に苦悩を生じさせてきたのである。それからさらに「産の時死の難を憂う」と、一つまちがえば、母子どちらかの命を犠牲にしなければならなかった。そして、生まれてから三年の間は、親からほおっておかれたら人間は育たないのであって、食べるほうだけではなく、下のほうのお世話もしてもらわなかったら、人として成長していなかった。ところがちょっと一人前になると、妻を愛し子どもに親しんで、父母を憎しみうとましくさえ思うようになる。親に恩孝をしないならば畜生とかわらない。


こちらは、読んでいてドキっとさせられます。
まさしく私自身のことではないかと
今私がここに生きて存在しているという事実は
裏をかえせば
ここまで生かさしめてくれた
親の有形無形のはたらきがあったということでしょう。
しかし、そんなことはすっかり忘れています。

そして、以前のブログでも書きましたが
(以前の日記)

祖父母からもかけられていたのでしょう。

もっといえば両親も祖父母から願いをかけられ
祖父母も曽祖父母から願いをかけられ
人間として育ってきたのでしょう。

そのいのちの背景を忘れて生きていくならば
それは人間とはいえない
人間が人間として生きていくということは

私の思いに生きていこうとしていた私が
翻り
願いに生きる私となるということでしょう。
その一番最初の根源的な呼びかけを
南無阿弥陀仏というのでしょう。

最後に詩を紹介して終わりにします。

「命の根」
私の命は 私ひとりのものでなく
おとうさん おかあさんのものです。
そして おとうさん おかあさんのものだけでなく
それぞれの おじいちゃん おばあちゃんのものです、
それはまた ひいおじいちゃん ひいおばあちゃんのもので
勿論 ひいひいおじいちゃん
ひいひいおばあちゃんのものでもあります。
粗末になんてできますか
不幸になんてなれますか
命の根は いま 私に託されているのです。


盂蘭盆会 法要
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