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お彼岸中は、
テーマをもって過ごしました。

それは、お墓参りに来た方に
本堂のお参りを勧めるということです。
(他のお寺関係者から見たら
そんなことは当たり前ではないかと
叱責されてしまうと思いますが・・・)



というのもある講義で講師の方が
「お寺にいるから、気付かないかもしれないけど
本堂っていうのは不思議な力がある場所なのだよ」
というような趣旨のことをおっしゃいました。

明福寺においてはお墓参りに来て
本堂をお参りする方もいらっしゃいますが

お墓参りだけで帰ってしまう方も沢山います。

この現状をほっといてしまってはまずいと思って

お線香を点ける前、点けた後
入り口でお茶を飲んでいるときなど等

「もしよろしければ、本堂お参りしませんかと」
誘い続けました。

最初の二組は
「え?!いいのですか?」
「せっかくだからお参りしましょうか」
といって、一緒に本堂をお参りしました。

お参りした方も喜んでいただけて
私自身も大変うれしくなって、
これは、勧めてよかったなと思いました。

しかし、その後は
結構断られてしまいました。

「ちょっと時間が」
「結構です」
「いやいいよ、先祖のお墓参りすれば」など等

断られると落ち込んでしまって・・・
お彼岸の初日の午前中の時点で
なんだかグッタリしてしまいました。

もう勧めるのやめようかな・・・

本堂で念仏すること勧めて
この一喜一憂しているのはなぜだろうか

念仏を勧めて、その人が念仏を称えてくれれば
自分がうれしくなって

念仏を断られたら、落ち込んでしまう

これは一体なんなのか

他の人に自分の力で念仏を
称えさせようと思っているからだ

だから、辛いのだ

歎異抄に以下の言葉があります。


親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。
『歎異抄』


現代語訳
私〈親鸞〉は、弟子を一人ももたない。というのは、私の工夫や努力で、ひとに念仏させることができるならば、自分の弟子であるということもできるであろう。しかし、本願力のはたらきに促されて、念仏することができたひとを、自分の弟子であるということは、とんでもないこころえ違いである。(『現代語歎異抄』親鸞仏教センターを一部変更)
 

そもそも私が念仏を勧めるのも
他の人が念仏称えるのも
私自身がどうこう出来ることではないのです。

自分の力でするのではない、
私が念仏を勧めること自体、「弥陀の御もよおし」だと感じると
断られても、落ち込まなくなってきて
悠々と勧めて
お彼岸の最終日まで過ごすことが出来ました。

お中日の様子
春彼岸
模擬店

春彼岸
法要

春彼岸
懇親会
行事を手伝ってくれた方、お疲れ様でした。

コメント

なんだかM先生の言葉が耳に残りますよね。

僧侶の立場として「~せねばならない」などの強迫観念に固められていると言われたけれども、それが全くなければ、お念仏はひろまらないし、テーマを持ってやることは大切だと思います。

>私が念仏を勧めること自体、「弥陀の御もよおし」だと感じると
断られても、落ち込まなくなってきて

僕なんか、自分の思いにとらわれすぎているせいか引きずるんだよね…
自分の力をたよりにして、他を自分の思い通りにしたいという欲が強いんだろうなって思います。

Re: タイトルなし

①さん
コメント有難う

私自身
本当はひきずっているのに
理屈で自分をだましているのかもしれません
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