極論

前回の日記で
疑いがあるからこそ、
何かがあれば
疑いが晴れるということが起きる。

しかし、その晴らす何かはわからない
わからないけれども、教えを聞くことで

何かしらの変化があることを求めている。
そのようなことを書きました。

最初の講義でも、

努力はしなければならないし、
努力だけではだめ

という言葉ありました。

これは教え云々ではなく、
人の人生を言い表している言葉ではないかと感じました。

結果が全てという尺度で見れば、
では一体どうすればいいのかという
嘆きしか生みません

最終的な結果を求めている限り
上手くいこともあれば
上手くいかないこともあるよと

単純な確率の話になってしまいます。

そんなことではないでしょう。
これが人生であるという導きの言葉なのでしょう。


答えにしたら消えてしまう。

根底からわきあがってくる、
問い抱えて、
願いを抱えて生きよと

それが人生であると


話しは変わって、僧侶というのは
通夜、葬儀に立会います。

その中で、絶えず明日どうなるかわからない。
それは私もそうですし、私の周りの人もそうです。

その次の日等は、車を運転するだけで
死というものが頭をチラつきます。

自分の運転もそうですし、
巻き込まれることだってあり得ます。

学生時代の友人と話していて、
こういうことをしようと思っている

早くしないと、明日死ぬかもしれないよ
なんて言うとだいたい決まって

それは極論だよ

という言葉が返ってきます。

明日死ぬなんて事は、極めて低い確率であって、
何の指針にも成りえない
例外の話しなのだ

こうやって、今生きているということが
それの証明だよ

しかし、今まで漫然と生きていた事実が
死を遠ざけ、生きているという
掛け替えのない時間を失わせているのです。

だから、明日の死ぬとしたらどうする。
なんて半分冗談のような問いかけで

欲望を満たすような、考えが浮かんで来たりします。


平均寿命が何歳だからと言ってみても、
そんなことは、何の保証になりません。

ただ一つの生を受けているのは私なのです。

その時に初めて、死にたくない
生の本能的な執着が起きてきます。

大事なのは長生きすることではなく
その身を引き受けている事実を知ることではないでしょうか。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

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コメント

教学館おつかれっすーv-222

いつ亡くなるか分からん命であるのに、そうは思っていても、ダラッと過ごしてしまう時がありますよね。

生きるのが当たり前として生活してしまう…v-12


1ノくん

コメント有難う、
久しぶりのコメント大変うれしいです。

私もだいたい二日も経てば、
日常に戻ってしまいます。

教学館三年間ありますから
頑張っていきましょう!

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