わからない、疑い

先月から東京教区で行っている
教学館という、育成機関に参加しています。

どういうことをしているかと
申しますと

一カ月に一度、
午後から教行信証の講義を受け
夕食の後、
参加者同士で現代語訳した教行信証の考究
そして一泊し
次の日は、様々な分野の講義を受け
昼食の後、歎異抄聴記の輪読をします。

そして、次の教学館までに
様々な課題が出され、

それが三年間続きます。

一度目が終わり、次回に向けて課題を
進めておりましたが、

十月二十五日は報恩講でしたので、
十月前半から中盤にかけては
報恩講の準備に終始しておりましたので、
なかなか課題が進みませんで・・・

一昨日くらいからやっとこさ始めました。
こなすのは大変ですが

課題や予習がなければ、
意思の弱い私は
中々勉強もしませんから

冷静に考えてみると有難いことです。

そもそも教学館は、東京教区の三十五歳までの僧侶を対象にした。
人材育成を目的としたものです。

私は外部で専門的に浄土真宗であり、
仏教を学んだことがないですから、
これは行くしかないという気持ちで申し込みました。

又、そもそも僧侶なのに、
仏教をちゃんとわかっていないのも
恥ずかしいですから、

ちゃんとしたお坊さんから見たら
このブログでも見当違いのことを
書いているかもしれませんし。

学びたいという気持ちは
当然強いのですが、
しかし、仏教というのは

他の学問と同じように
学んで知識を広げていく
もしくは高めていくものではないのだろうな
というようなことも感じ始めています。

普通の学問であれば、

○○先生、○○氏の
教科書、基本書、テキスト、実務書を読んだり
講義を聞いたり、説を学んだりしますが

仏教になってくると
お釈迦様や、親鸞聖人、蓮如上人の
教えを聖典、聖教で学ぶ
拝読する、法話をいただく
というような言葉を使います。

聖人であり、教えですから

一つの価値観として
有難いという前提が含まれています。

質が違うというか
求めている方向が違うようなことも感じ始めています。

その違いはとても大事なことなのでしょうけど
なんとなく言葉では表現出来ないというか

本当の深いところから、ああこれだと思えるような
深い頷き、それがほしいがために
話しを聞いたり、本を読んだり
方法は違え、深い頷きを求めている

しかし、日常を生きていると、もっと具体的な
問題で苦しんでいますから

本当の問題を捉えられず
見過ごしてしまう

現れる形は違え、根っこは同じ問題で
いつも悩み苦しんでいる。

ではそれはいったいどうしたらいいのか

それは、教えの言葉としては残されているのです。

浄土真宗でいったら

本願を信じ念仏を申さば仏に成る

念仏成仏これ真宗

頷けるかは別として
言葉の意味がわからないということはありません

阿弥陀仏の願いを信じて、念仏をとなえれば仏になる

しかし、それがなかなか響いてこない

そのまま、ああそうかという深い頷きが起きない
それをそのまま受け取ることが出来ない。
だから、わからないということになって来ます。

そうなるとわかるために
学んでいこうとなって来ます。

すなわち、疑う
それは人を疑うというようなことではなくて、
その教えに私が頷くことができるのが
今現時点から未来へ向けて
疑いを晴らすために学んでいく。

しかし、学問の延長線上には
その頷きはなさそうである。

その学びの仕方が違うのかも知れない
広げる、高めることではない
深めるとでもいうのでしょうか

それは、いったいどうしらいいのかは
わからないのですが・・・

教学館に行くことで、糸口が見えたらいいなと思っています。

仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし
(正像末和讃)


しかし、この和讃を読むと
このわからない、すなわち疑うというあり方が、
実は翻る前提なのかもれないと思ったりもするのです。
都合がいいですが・・・

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