FC2ブログ
08 31
2009

岐阜に里帰りをするにあたり

新幹線の名古屋駅で降りるのだから
名古屋にも降り立ってみようということになりました。

以前
深夜の番組で
名古屋から少し離れたところに

宗教公園があるという情報得て
へ~そんなのがあるのかと
調べてみますと

親鸞聖人の御旧跡をあらわした
塑像が園内に点在していて
視聴覚伝導をめざして設立されたとのことでした。

親鸞聖人にまつわるエピソードを通して
教えを伝えていく

なかなかおもしろい試みなのではないかと思い
岐阜に行くついでに訪問することにしました。

親鸞聖人にまつわる話には
現実にはありえない話もあります。

そのため、
新たな歴史的事実の発見であったり
その当時を正確に掴む情報にはなり得ないでしょう。

しかし、だからといって、
それはただの作り話で
迷信めいたものであるから

知る価値、聞く価値がないという
ことにはならないのではないかと思います。
話は変わりますが
最近は、真宗の教えに関する

講座や学習会には
都合がつく限り参加するようにしています。

そこには、頷きも生じると同時に
難しさというものを感じています。

僧侶なのだから、そこは当然という動機で
向かいあってはいるのですが

一つの疑問というのが出てきました。
浄土真宗は在家仏教です。

それはすなわち、出家を要さない
修行を要せず誰しもが

本願を信じて、念仏を唱えれば
浄土に往生する

念仏をとなえる
この一つに集約されてきます。

大谷派の僧侶になるにあたっては
他宗で聞くような、厳しさというものは
ありませんでした。

しかし、それは一種に比較してのことです。

信仰というのか、信心は
真実より賜るというような話で

学びの延長線上に信心というものがない
教えを学んだから信心が
生じるということではないのだとしても

そういう方向性ではないという
気付きは、あらぬ方向に進んでいたから
違っていたのだと気付けるわけですし、

だからといって
あえて間違え、経験をしてみるなんてことでは
衝撃は起こらないでしょう。

強い意志、想い
それこそが私自身を照らす
きっかけになるのではないかと思われてきました。

どちらにせよ、学びというものが
どう影響をあたえるのか・・・

それでは、教えを
対象化して考えていて

私自身そのものが問いとなっていない
そういう方向になってしまいます。

まったくその通りなのですが
対象化して、確信とはいえないまでも
一筋の光明が見えない限り

なかなか私自身が問いとなってきません

そもそも、私はサラリーマン時代に
お寺の息子という、若干の意識で
大きな法要と、可能な時は法事に出ていましたので、

仏教自体への関心と
形式的なおつとめとはいえ、

仏教に触れてきたはずなのです。

しかし、そこで頷きは生じないというよりも
頷きを仏教に求めてさえ来ませんでした。

それはお寺や、お坊さんの伝え方の問題であって
教えそのものの問題ではない
そうも、思うのですが

そもそも求められてない

しかし、真宗の僧侶となって
学んで、何かしらの変化なり
信心に影響があったとしたら

それは、浄土真宗の教えは
在家仏教であるにもかかわらず、

真宗の僧侶にだけ伝わって

いわば普通に仕事をもっている
大多数の人には、対応出来ないというよりも

対応する機会さえなくなってしまっているのでは
ないかと思って途方に暮れてしまいました。


だいぶ昔、真宗は多くの農民の拠り所なっており、
農民は当時、みんながみんな字が読めたわけではないでしょうから、

当然、聖教を読むということもなかったでしょうし
書物を学んでいくことが、教えに触れるという
ことでもないでしょう

そこで、親鸞聖人の伝説、や逸話が
口伝えにきっかけや、頷きとなっていったのでは
ないかと思います。

そういう伝説も、私自身あまり知りませんので
今となっては科学的な視点から風化し、今では
対応しないものになったのかもしれません。

しかし、私はそこに一筋の光明となるものが潜んでいるのでは
ないかと思えてきました。当然同じ伝わり方では
ないでしょうけど・・・


五帖御文 2通目
それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。このゆえに、いかなる女人なりというとも、もろもろの雑行をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。


歎異抄第2条
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々



宗教公園は五色園というのですが
その日は、炎天下で
娘もいたので、全ては回れませんでしたが

駆け足で巡って、写真だけ撮ってきました。

P1010621_400.jpg

P1010628_400.jpg

中身も紹介していく予定です。

五色園
コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ナカノブ

Author:ナカノブ
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ